世界との相互作用すべてを「わたし」と呼ぶ

わたしとはどこからどこまでを指すのだろう。散歩中に考える。骨や筋肉や髪の毛は確かにわたしだろう。じゃあ服はどうか。靴はどうか。

地面の感触がスニーカー越しに伝わってくる。ごつごつしているのか、ぶよぶよしているのか。踏んづけた小石の大きさがわかったり、枝が折れるのを感じたりする。

風が顔に当たる。汗が冷えてひんやりする。

西日が眼を刺す。思わず眼を細めると、視界が狭まり色合いが変わる。

わたしとはわたしの体を構成する細胞群のことをいうのではなく、世界との相互作用、感覚器官が世界に接触して受ける刺激とその結果生じる制御・調整、そういった現象のすべてのことをひっくるめて「わたし」と呼ぶのではないだろうか。そんなことを最近よく思う。そのほうがしっくりくるのだ。わたしという確固たる存在がもとからいてそれが世界に触れるのではなく、ある不安定な意識に紐づいた感覚器官と「世界との接点」の総体を「わたし」と呼ぶ。わたしが感じるのではなく、感じるからわたしがそこに生じる。

こんなことを考えるきっかけになったのは「融けるデザイン」という本を読んだからだ。これがほんとうに面白い本だった。インターフェースのデザインについて説かれた本で全編がめちゃくちゃ刺激的なのだが、特にわたしに響いたのは上に書いたような「どこまでが自分か」という問いへの考察だった。

つながりが密な世界との接点もあれば、かなりおぼろげな接点もある。靴の裏で感じる地面はかなり具体的だが、電車の床から感じる地面はぼんやりしている。そういう意味で、わたしという存在は接点の感度の濃淡によるグラデーション状態で世界に存在しているといえる。いわゆる人型ではなくもっと不定形で、感覚できる末端までを含めるとその姿はけっこう巨大なのかもしれない。