死について

今年、幼少期から交流があった人が40代で亡くなった。

もう10年以上会っていなかった。ある日突然「もう長くないようだ」と知人から連絡がきて、その2日後には他界の知らせがあった。あまりのスピードにどう受け止めていいのかわからなかった。正直なところ悲しさはそれほどなかった。成人してからはあまりにも互いの人生が離れすぎていた。一方で子どもの頃に一緒に時間を過ごした印象は今でも鮮明に残っているもので、その人が病室で徐々に衰弱していく姿は想像がつかなかった。最期はどんな日々を送ったのだろうか。この世に未練は…あったよな、多分。

自分自身も中年にさしかかってから、死というものについて考えることが以前よりずっと増えた。死の存在に意識を慣らしている過程が今なのかもしれない。それでもこうやって身近な死が唐突に日常に斬り入ってくると、そのあまりの理不尽さにうろたえてしまう。まったく人間の言葉が通じない、巨大な理不尽さ。なんなんだ。なんでそんなものが当たり前にこの世界にあるんだ。

この人生のいくらか先に死が待っているんだなという感覚は年々濃くなっている。待っていることだけは確実なのに、いつなのかは一切わからない。めちゃくちゃだ。

少しだけ気が楽になったこともある。死は必ず誰もが経験する。時期は人によって違うしプロセスも千差万別だろうが、経験しない人はいない。そう捉えると「まあ、しょうがないか」となる。納得はしてないが渋々引き下がる。去年もたくさんの人が亡くなった。特に物心ついた頃から見知っているミュージシャンが大勢この世を去ったのはショックだった。今後も「わたしが知っている人」のうち「生きている人」が占める割合はどんどん減っていく。もし将来、長生きができたのなら、「知っている人はほとんど皆あっちに行ってしまった」状態になるのだろう。そのとき抱く死のイメージはどんなだろう。むしろ憧れを感じたりするのだろうか。

あまり考えすぎても不安が増大して目の前の時間と空間に集中できなくなる。それは「生きてない」状態であり、本末転倒だ。できるだけ、なにかに夢中になりながら日々を過ごしそれをちょっとずつ延長していきたい。そのうえで、死を忘れるんじゃなく死の存在がずっと脳裏にこびりついているほうがいい。常に心のどこかで「死が怖い」「時間がない」と感じていたい。