行動と意思
朝から動くのがとんでもなく億劫だった。火曜日だった。その日はリモートワークだった。急ぎのタスクはない。逃げたい気持ちを抱えてベッドで横になっていた。6月になり朝も暑くなってきやがった。足が火照っている感覚があり、シーツの冷たい領域を探して奇妙なポーズを繰り返す。
やがて始業時間が近づいてきた。まだ活動への意思は生じてこない。どうした。いよいよまずいぞ。ついにわずかな猶予もなくなった。しかたなくどんよりした頭のまま、なるべく何も考えず起き上がり、歯を磨いた。
なぜ動き出せないんだろう。理由を探してもよくわからない。やるべきことは判明している。行動への意思(やる気、と言ってもいいかもしれない)が発生するのを待つが、うまくいったためしはない。ずっとそのままでいると泣きたいような薄暗い感覚がじわじわと意識を侵食していく。
こんな朝は定期的にやってくる。どうしたってやってくる。しかし私は動かなくてはいけない。なぜならわたしはおじさんで、生の残り時間は十分とはいえない。もっとうまく自分を操縦しなければいけない。
本当は順序が違うのだ。意思が先にあって行動を起こすのではない。行動することで意思は生まれる。
わたしはやるべきことをリスト化しはじめる。物理的なメモでもアプリ上のメモでもいい。機械のように、頭に浮かんだそばから記入していく。リスト化すれば少なくともその時点からは「あれもこれもやんなくちゃ…」という思考に脳を使わなくてすむ。リソースが空く。それだけではない。「あれもこれもやんなくちゃ…」状態の意識はとてもしんどいので、それを回避できればメンタルも一気に楽になる。
あとは粛々と、リスト上のタスクを消化していく。意気込まなくていい。朝食をとるように、ヒゲを剃るように、模範囚のように片付けていく。正午を過ぎるとだんだんと頭がすっきりしてきた。腹も減ってきた。
目覚めから就寝まで自分を操縦しきるのが理想だけど、そんなものは到底無理だ。理想のプロセスを20倍くらいに薄めた毎日をわたしは送っている。
もっとやれる?いや、負荷を上げた人が壊れてしまう場面をこれまでたくさん見てきた。あれはほんとうに悲しい。わたしには今くらいが実際ちょうどいい。