風景が失われるということ
わたしは寝付きが悪い。布団に入っても40分くらいは眠れない。目を閉じてゴロゴロしているとさまざまなイメージが勝手に脳内に浮かぶ。とりわけ、子どもの頃に見た風景が急によみがえることがしばしばある。この前は、Y字路に立てられている映画館の汚い看板を思い出した。9歳頃に見た風景だ。
どうして数十年間、思い出せなかったんだ。わたしはその風景をあらためて記憶に再定着させようとする。そのときに気付く。よみがえった風景の前後左右の様子が思い出せない。絶対に見ていたはずなのに、歩いたはずなのに。
Googleストリートビューでは過去のある時点を選んでその場所の風景を見ることができる。わたしはこれを神がかった機能だと思っている。いずれはより高解像度化、動画化、VR化するだろう。
でもGoogleストリートビューが登場する以前の街の風景は失われている。いや、正確には誰か個人が持っている写真やビデオの中には収められているかもしれない。でも世界中に散らばっているそれをつなぎ合わせてある時代の街の姿を復元することはちょっと不可能だ。もっとも、数十年前の街の姿なんて誰も気にとめてないかもしれない。でもわたしはそれをとても残念に思う。
そういう思いがあるから、わたしはたまに故郷の街の名前と「平成3年」などのワードで画像検索をする。わたしが思い出せなくなった風景の写真があるんじゃないか、そんな望みを託して。しかし出てくる画像の多くは役所や駅、観光名所など街のシンボルとなるものばかりだ。何の特徴もない、無名の街角の写真は出てこない。当時は今より写真を撮るコストが高かったからなおさらだ。
わたしもすでに多くの風景を忘れてしまった。これからもっと忘れていくだろう。
どうしてこんなに風景に執着するのか。風景が失われることに絶望するのか。いまいち自分でもわからないが、子どもの頃の風景というのはわたしという存在の一部なのだろう。自身が損なわれることへの不安なのだと思う。
9歳の自分なんて、もはや前世のように遠い。もしかしたら他人というほうが正しいかもしれない。それでも、子どもの頃に見た風景が世界から消滅してしまうことにとてつもない寂しさと、静かな恐怖を感じてしまう。