夢でしか行けない町
夢の中で、昔の同僚に会った。
どうやらわたしの地元の、路上のようだった。わたしたちは路上でしばらく話した。
そうだ、せっかくだからどこかでお茶でもという流れになった。
わたしは行き先を思案する。どこに行こうかな。ああそうだ、少し歩いた先、海の近くに、アジアの雑貨がたくさんあるカフェがある。そこにしよう。
初夏の夕方で、空はまだ明るかったように思う。曇っていたが雲越しに薄紫色の光がうっすら感じられた。
わたしと元同僚は連れ立って店へ向かい歩き出した。
そのあたりで目が覚めた。
不思議な夢だった。脳にまだ残る風景の感触を味わっていた。
どうせなら目的の店まで行きたかったな。
店?
どの店だ?
そんな店はない。海の近くのアジア雑貨がたくさんあるカフェなんて、実際の故郷には存在しない。
だがわたしは確かに夢の中で「あそこへ行こう」とひらめいたのだ。店内の様子までありありと頭に浮かんでいた。
…。
そうだ、わたしはあのカフェを訪れたことがある。ずっと何年も前に見た、別の夢の中で。だから存在を知っていたんだ。 そして当時も、夢から覚めたあとはそのカフェのことなんて一瞬も思い出すことなく現実を過ごしていた。というか夢を見たことすら忘れていた。
どうやら夢の中でだけ、行ける町がある。わたしの地元によく似ているが、似ているだけでまったく違う。
その町は、道や、建物や、そこで暮らす人々までぜんぶまるごと一式がわたしの脳の奥深くに保存されているのかもしれない。
もしくはその異世界は本当にどこかにあって、わたしはときどきラジオの周波数を合わせるように無意識に心身を制御してそこへアクセスしているのかもしれない。
もっと不気味な別の可能性もある。
さっきは例のカフェを、以前に夢で訪れたから知っていると書いた。でももしかしたらその記憶さえ、今朝でっちあげられた疑いはないだろうか。「カフェを訪れる夢を数年前に見た」という記憶が今朝の起床時につくられたのだとしたら。
そう考えるといったい何が信用に足るのか、さっぱりわからなくなる。記憶が不確かになればそのぶんわたしの存在も不確かになる。お尻のあたりがぞわっとしてくる。
しかしながら、わたしの中に確かに残っているあの店の記憶、今日数年ぶりに呼び起こされた、店を訪れた記憶。そのリアリティと奇妙さよ。小太りで髭面の、愛想のいい店主がいたんだ。店内では服も売っていて、気になったパーカーを広げて眺めたのも覚えている。
今日はこれだけあの店を鮮明に思い起こすことができたので、もしかしたらそのうちまた続きの夢を見られるかもしれない。そのときはぜひあの海沿いのカフェまで辿り着きたい。(そしてちゃんと、現実に帰ってこなくてはいけない)