路上とアフォーダンス
散歩していると、なぜか見入ってしまう風景がある。
たとえば、土手に半分埋まっている、いつの時代のかわからないジュースの瓶や、
畑の隅に刺さった杭と、それに結び付けられた、ちぎれたぼろぼろの紐。
遠くの民家の、庭に植えられた柿の実の、鮮やかな朱色が少しだけ見えている様子や、
ビルとビルの間の狭く汚い空間を覗いたら、ぎょっとするほどの奥行きがあったとき。
「美しい」という表現では、何かが違う。はまらない。わたしはそこに美を見出しているわけではない。わたしに生じているのは瞬間的な内面のざわつき…対峙したときになんともいえずわくわくする、どきどきする、うれしくなる、そんな感じのやつだ。
今年、J.ギブソンの「生態学的視覚論」という本を読んだ。とても苦労して、でも夢中で読んだ。
本の中で、著者が提唱した「アフォーダンス」という概念について説かれていた。アフォーダンスは、物体がもつ「行為の可能性」のことだ。人がものに出くわしたとき、そこにはいろんな「人とものとの関係のしかた」が、可能性としてある。ものはなんでもいい。岩でも、小枝でも、水でもいい。それらに対して、さまざまな行為が起こりうる。座ったり、握ったり、投げたり、じっと見つめたり。あらゆるものは、そういった行為を生じさせる可能性を備えている。主張はしてこないけど、最初から備えているし、今後もずっと備え続ける。
わたしは日常の中でときどき、アフォーダンスを意識するようになった。
ここで最初の話に戻る。
わたしが特定の風景になぜか(瞬時に)惹かれる理由は、そこに豊富なアフォーダンスを発見しているからじゃないか?
環境に対していろんなことができる可能性が、関係できる可能性が、そこに溢れているから、わたしは無意識にそれが嬉しくなって、期待したり充足したりするのではないか。そんな仮説にたどり着いた。
それは世界にあるものを、名前や意味で捉えるより、もっと原始的で素朴なよろこびだ。