紙面の経験
いまだに紙の本を買うことが多い。
電子書籍が嫌いなわけではないのに、8割以上の頻度で紙の本を買っている。
なんで紙を選ぶのか。以前は、紙の本の利点は解像度の高さにあると思っていた。でも、近頃の高解像度ディスプレイと紙の本でどのくらい解像度に差があるかというと、少なくとも流し見するぶんにはデジタルでもまったく問題はない。
じゃあ、没入感の違いだろうか。確かに紙の本は、本それ自体が手の中にあって、視線はそこに全部注ぎ込まれている。周辺にノイズがない。PCだと、今開いてるウィンドウの背後に汚いデスクトップが見えたりするけど、そういった余計なものがない。
いやいや、でもスマホやタブレットなら、本を読んでいるときは全画面が本の情報のはずだ。デバイスの辺でフレーミングされているんだから、ほとんど紙の本と同じ状態のはずだ。
となると一体、何が違うというのだろう。
あれこれ考えた結果、「わたし」と「物理的な本」の間に発生する相互作用、その情報量にこそ違いがあるんだろうな、という結論に落ち着いた。
紙の本は、それを持っているわたしの手がわずかにでも動けば、同時に本の表面の状態もわずかに変わる。手の影が落ちる位置が変わり、影の面積が変わり、影の色の濃さも変わる。手の力加減によって紙面の反りのカーブの具合も変わり続け、それにより紙面の文字や写真も歪む。意識に上らないような、ごく小さな体の動作だったとしても、対応した、同じようにごく小さな変化が本の側に起きる。一瞬たりとも途切れることなく、起こり続ける。
この「わたし&本」の、ものすごく緊密で充実した相互作用を、わたしはきっと愛しているのだと思う。その相互作用は、「わ〜、本とよばれるなにものかが、今たしかに存在しているよ〜」という実感をわたしにもたらす。本自体、そして本に収められた情報と、関わり合っている手応えがそこにはある。
このあたりは前回書いたギブソンの話とも通じてくる。
ちなみに、漫画にかぎっては積極的に電子書籍で買っている。これは漫画はその様式上、「紙面の経験」ではなくて「ある世界の経験」として味わう方がより気持ちいいからだろう。別の世界に没入するにあたっては、紙の表面の情報や、それが自分の手の動きで変化する情報なんかがないほうが、バーチャルリアリティとしての効果が高まるからだと考えている。